心の奥で引っかかっていたもの。

いつもブログを見ていてくださる方、こんなアホな21歳の駄文を見ていてくださる方、重ね重ねありがとうございます。そんな優しい人たちは、この後の文章はとってもゲェーなものであると思いますので読み飛ばしてください。「だったら一番上に持ってくんなよ」という方もいるかもしれませんので畳んでおきます。そして、今日明日に限っては上に更新されるように設定変えておきます。
いい加減吐き出さないとノミの心臓が死んでしまうので。ウフ。









数日前、カラーリーディングというものを試してみました。基本的に占いとかは信じない(ように努めている)ので、今までのものに対しては笑って済ませていましたがどうしても今回引っかかってしまった事が。

あなたはその内面に、フラストレーションや恨み、怒りといったマイナスの感情をたくさん溜め込んでいます。一方、自分を犠牲にしがちだったり、お金や物質を優先しすぎる傾向もあります。それらは、子供の頃に十分な愛を受け取れなかったという飢餓感や失望感に要因があるようです。ぽっかり空いた心の穴を埋めようと、たくさんの愛を求めているのです。

私は随分昔から「結婚」や「子供」というものに嫌悪感を抱いていたし、今でもそうです。それはきっと、幼いころから一番身近に見てきた両親、特に「母親」という存在があったからだと思います。"子供の頃、充分に愛されなかった"という表現が正しいのかどうかはわかりませんが、"本当に愛されているのか"という疑問は幼い頃から常にありました。なので、どうしたら母親に愛されるのかということを考えていました。しかし、今思えば、多分母は子供への愛情表現の方法がわからなかったのではないかと思うのです。母も(夫である我が父から聞く限り)一風変わった両親に育てられたらしく、相当屈折した幼少時代を過ごしたようです。そんな母親が子供を育てる。どのように育てるかなんて、自分が過ごした子供の頃をほぼ再現するようなものです。母も、そして私も。なので私は、子供が怖くてしょうがないのです。目の前にいる自分の子供が、ニコニコしながらも実は心の中で相手を伺うような子供だと思うと、人を怖がって距離を置くような子供だと思うと、自分を見ているようで苦しくなると思うんです。
そんな母と一緒にいる父は、固くて柔らかい人です。自分というものを強く持って努力を惜しまず、母という強くて脆い人とも長く一緒にいられる人。でも、私にとって父は越えられない壁でしかありませんでした。事ある毎に表情が一変し、上から抑え付けるように見えないスイッチを押されているようでした。もちろん、それが子供への愛情であることは理解しようとしていたつもりでしたが、態度とは裏腹な「自由にやりなさい」という言葉を言われる度、その背反したモノにただ混乱するばかりで、この人は何を言っているんだろうと何度も考えました。それでもこの「家族」は「性格」として、わかりきった答えを「使命」として、無意識に相手に課すということで色濃く繋がっているように思います。それを証拠に、強く「愛情」を注がれた娘の一番守りたいものは自分が愛すべき人達であり、それ以外の何者でもなくなっていると思うのです。でも、時折、物事の本質を考え直そうとすると、守るべきものは人なのに、焦点・目的を誤って物質的なものに傾いていることに気がつくんです。物事を見失って迷走している自分に気づくと、自分自身を酷く追い詰めるようになりました。
今まで生きてきた短い時間で、一番多く学んだことは「不変のものは諦めること」。それは同じことでも、新たなことでも、人に対しても、寸分違わず繰り返されることは諦めて受け入れるしかないということ。もちろんそれは楽に逃げたように思えても、私にとっては一番つらい事。受け入れたことは、繰り返し自分の中で動き回っているから。でもこれをどうしたらいいのか、教えてもらっていないからわからなくて、どうしようもなくてずっと手に持っているだけのこと。それらを捨てられたことなんて一度もなくて、ただじっとそこからもとあった場所に去るのを待つだけ。今となっては、なんとかする方法を教えてもらったとしても今までを捨てるのが怖くて、それこそ諦めてしまうようになってしまったよ。

私が一番大事にしている姉という存在は、もし、今彼女が死んでしまったら自分もどうにかなってしまうんじゃないかと怯えるくらい大きい。家族のことを包み隠さず話せる唯一の相手であるし、つらいことを少しでも早く吐き出せる。お互いの微妙な気遣いすらも心地いいものに思えるくらい。そんな彼女以外に、家族以外に、愛している人もいる。
「人から愛されるのを望むなら、まず自分から愛しなさい」とある。でも、愛し方がわからない人はどうしたらいいんでしょう。自分でも今、どうして接しているのかわからないけれど「相手にストレスを感じさせないこと」が第一と考えるのが愛し方だとしたら、それは愛し方の一つに含まれるのでしょうか。それが一番だという人を選んで、私は「愛せ」ばいいということなんでしょうか。自分はそんな突き放した愛し方はしたくないし、一番そばにいるのが自分じゃないくてもいいような突き放された愛され方は悲しすぎて嫌だとわかっているのに、どうしたらいいかわからなくて、一番遠い愛し方しかできないんでしょうか。そういった大切な人に対しても諦めるといったことしかできないのは、こもりたくない見えない殻に引きずりこまれているような地獄のような感覚でしかないよ。

■追記(05.08.14)

少し落ち着いたので。

よくよく考えれば、私はあまり話し合いという事をしていなかった気がする。いや、していない。常に相手を伺って様子を見ている。自分で判断して、何もない、もしくは薄い反応ならば逃げる。
それがもし、自分と同じような人間だったらどうなるか。…。
曖昧なまま、話せば変わるようなこと(だったとして)も、曖昧なまま諦める。今回のことで学んだのはこれだろうか。あっさりと最後の言葉を言うんじゃなくて、少しでも話し合えばよかったのかと。

いや、どうだかわからんな。